設計者として働いていた10年間、企画書を何百枚と受け取った。
その都度、黙って設計に落とし込んだ。 「なぜこの機能なのか」「お客様が本当に欲しいのはこれなのか」—— そういう問いが頭をよぎっても、口には出さなかった。 設計者の仕事は、企画を実現することであって、企画を評価することではなかった。
でも、その問いは積み重なっていった。 そして気づけば、「自分なら、もっとこうする」という感情になっていた。
企画職への憧れは、突然やってきたわけではない。 10年間、企画書を受け取り続けた中で、じわじわと育っていったものだ。
最初は「違和感」だった
設計者として最初に企画書を受け取った時、 特に何も感じなかった。 与えられた仕様を、与えられた期日までに設計に落とし込む。 それが仕事だと思っていた。
違和感が生まれたのは、もう少し後のことだ。 ある企画書に「世界初の機能」と書かれていた。 でも私には、その機能がお客様に必要とされているかどうかが、わからなかった。
ある企画書を読んだ時のこと
「世界初」という言葉が一番上に書いてあった。競合との差別化、技術的な新規性——そういう言葉が並んでいた。
でも「お客様がこれを必要としているか」という根拠が、どこにも書いていなかった。
聞いてみようかと思ったが、やめた。設計者が企画の中身に口を挟むのは、越権行為のように感じた。
黙って設計を始めた。でも何か引っかかる感覚が、残った。
この「引っかかり」が、最初の違和感だった。 その時はまだ「気になった」程度のことで、 転職を考えるほどの感情ではなかった。
「自分ならこうする」が、積み重なっていった
その後も、企画書を受け取り続けた。 受け取るたびに、小さな引っかかりが積み重なっていった。
お客様のフィードバックを聞く機会があった。企画が想定していた使い方と、実際の使い方が、大きくズレていた。「なぜ企画する前にお客様に聞かなかったのか」という問いが、頭から離れなかった。
一つひとつは小さな引っかかりだった。 でも10年分が積み重なると、「自分がやればもっとうまくできる」という確信に近い感情になっていた。 その感情が、企画職への憧れの正体だったと今は思っている。
「憧れ」と「羨ましさ」は、違うものだった
企画職への感情を、最初は「羨ましさ」だと思っていた。 企画職は上流の仕事で、自由度が高そうで、面白そうだ—— そういう「隣の芝生は青い」的な感情だと、自分でも思っていた。
でも、あの「お客様のフィードバックと企画のズレ」を見た瞬間から、 感情の質が変わった気がした。
「羨ましい」は「あの人がうらやましい」だ。「憧れ」は「自分がそこに行きたい」だ。その違いに気づいた時、企画職への思いが本物だとわかった。
企画職が羨ましかったわけではない。 お客様のニーズを起点に、データで検証して、実現可能な機能を設計する—— その一連の仕事を、自分の手でやりたかった。 それが「憧れ」の正体だった。
憧れが行動につながるまで、時間がかかった理由
憧れがあっても、すぐに行動しなかった。 3年間、動けなかった。 なぜか。
「憧れている」と「できる」は、まったく別の話だからだ。 企画職に憧れていることはわかっていた。 でも「自分が企画職として通用するか」への答えが、出ていなかった。
転職活動を始める直前に書いたメモ
企画職がやりたいという気持ちは、ずっとある。
でも「企画職として何ができるか」を言葉にできない。言葉にできないから、面接でも話せない。話せないから、採用されない。
憧れを「できること」に変える作業が、まず必要だ。
この気づきが、「できること100個」を書き出す作業の出発点だった。 憧れを「できること」に変換する作業をして初めて、 行動につながる根拠が生まれた。
憧れは、行動の「理由」にはなれない。でも「燃料」にはなる
転職活動を終えた今、企画職への憧れについて思うことがある。
憧れだけでは、面接は通らない。 「やりたい」という感情は、根拠がなければ相手に伝わらない。 その意味で、憧れは転職の「理由」にはなれない。
でも憧れは、転職活動の「燃料」になった。
3年間悩み続けても、企画職への気持ちは消えなかった。 子どもに「大丈夫?」と言われた夜も、消えなかった。 4社に落ちた時も、消えなかった。
消えなかった感情が、最後まで動き続けさせてくれた。 憧れは、根拠がなくても本物だ。 根拠は、後から作ればいい。
「やりたい」という感情を持っているなら、それだけで十分な出発点だ。 その感情を軸に変える方法は、別の記事に書いた。 憧れを燃料に、根拠を作っていってほしい。
「やりたい仕事がある」という感情を持ったまま相談すると、 エージェントとの対話が深くなる。 リクルートエージェントは、漠然とした希望でも一緒に整理してくれた。


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